SPnet私服保安入門
今度は私の新人時代の実例である。
事例10.『えっ?なにも入っていませんよ…。』 女性はバッグを開けた
“ヒヤリ・ハット”は誰にでもある。
それを経験して「一人前」になっていく。
「ヒヤリ・ハット」も運が悪ければ誤認事件に発展する。
誤認事件を起こせば、私服保安生命はそこで終わりとなる。
私服保安を長く続けている者は「運を持っている」とも言えるのだ。
誤認事件のほとんどは「経験1年未満の私服保安」が起こすものである。
1年を越えた私服保安が誤認することはない。
1年を超えた私服保安が誤認するのは、その者に適性がないからである。
彼らは何度でも誤認を繰り返す。
彼らの誤認をなくする方法はただ一つ、「辞めさせる」ことである。
私は私服保安8カ月目であった。
検挙実績は30件程度だったろう。
H&BC に25歳くらいの女性がいた。
※H&BC : 薬品や化粧品を扱う売場( health and beauty clinic )
彼女は無表情で化粧品を品定めしていた。
左肩に小さなバッグを掛けている。
私は「女性の無表情」が気になった。
そこで、H&BC 向かいの婦人用品売場で女性の監視を始めた。
女性は肩に掛けていたバッグを左手で固定し、右手でバッグのチャックを開けた。
無表情は変わらない。
「盗るな…。」
女性が口紅3本を右手で棚取りした。
そして別の棚列に行き、それを左肩のバッグに入れた。
その棚列はいわゆる「仕事場」である。
※仕事場 : 万引きが商品をバッグやポケットに入れる場所。売場レジの死角となっている場所。
次に、マスカラ2本を同じようにしてバッグに入れた。
この「仕事場」は H&BC レジからは死角になっているが、婦人用品売場からは丸見えである。
私は「口紅3本とマスカラ2本」をしっかりと現認した。
女性が H&BC を出て“制度化化粧品”コーナーに移動する。
“制度化化粧品”とは、資生堂・カネボウ・マックスファクター・コーセー等のブランド化粧品である。
各ブースにはメーカーの美容部員がいる。
彼女たちは女性客の相談を受けて、商品を説明したり実演したりして商品を勧める。
“カウンセリング化粧品”とも呼ばれている。
この制度化化粧品コーナーは、私のいる婦人用品売場の右隣にある。
私は体の向きを変えて女性の監視を続ける。
女性がコーセーのブースに来た。
奥のカウンターで、美容部員が客の相談を受けている。
女性はアイシャドー2個を手に取った。
そして、美容部員のいるカウンターに背中を向けて、それをバッグに入れた。
私の方からは女性が正面に見える。
「アイシャドー2個」の現認OK。
女性はコーセーを離れ、バッグのチャックを閉めながら、私のいる婦人用品売場に入ってきた。
私は女性に見つからないように移動する。
もちろん、彼女を視界に入れたままである。
女性がハンカチ棚の前に来る。
私はハンカチ棚の背後に回る。
ハンカチ棚の向こう側に女性、こちら側に私である。
ここから専門店街出入口までは10m。
女性は「出るチャンスをうかがっている」のである。
30秒くらい経った。
女性はまだ動かない。
「?」
私は、そぉ~とハンカチ棚の向こう側を覗いた。
「えっ?いない!」
私はあたりを見渡した。
女性はもう専門店街出入口の近くにいた。
私は急いで女性を追った。
女性がスーパーマーケットゾーンから専門店街へ出た。
私は背後から近付いた。
彼女は左肩に掛けたバッグのベルトを両手でしっかりと握っている。
私は声かけした。
私『いまそのバッグに入れた、コーセーのアイシャドーのことだけど…。』
女性は無表情でバッグを肩から外し、チャックを開けて両手でバッグを拡げた。
女性『なんにも入っていませんよ…。』
バッグの中には財布も小物も何も入っていなかった。
まったくの“空っぽ”だった。
私は一瞬焦ったが、平静をよそおってこう言った。
私『なぁ~ンだ、戻してくれたのか。それならいいよ。行ってかまわないよ。』
女性は無表情のまま歩いていった。
「あの、ハンカチ棚に手放したのか?」
私はすぐに、ハンカチ棚の女性のいた場所に戻った。
そこには、私の現認した「口紅3本・マスカラ2本・コーセーのアイシャドー2個」と「化粧用品3点」が並べて置いてあった。
後で調べたら、この「化粧用品3点」は店の商品ではなかった。
女性が専門店街で盗ってきたものなのだろう。
女性はハンカチ棚に、これらの商品を置いていったのである。
彼女は私に気付いてはいない。
『見つかった!』と思って商品を手放したのではない。
なぜ、商品を置いていったのだろう?
しかし、そんなことはどうでもいい。
問題は「30秒程度の中断」があったことである。
私は中断があったのに、「その中断をチェックすること」を忘れていたのである。
本来なら女性が出口近くにいるのを見つけたあと、「女性のいた場所に商品が捨てられていないか」を確認しなければならない。
そこに「現認した商品」が置いてあれば、女性を追って声かけしてはいけないのだ。
しかし、私はそのことを忘れていた。
「棚の向こうにいるはずの女性がいない」ことへの驚きと「出口近くにまで進んでいる女性に逃げられてしまう」という焦りが、
「中断があったこと」、「その中断をチェックすること」を忘れさせたのである。
私は「平常心」をなくしていたのである。
私には「よい教訓になった」とほろ苦い気持ちでいる暇はなかった。
私は女性に声かけしたのである。
女性から『万引き扱いされた。』とクレームがあるかもしれない。
私は「女性が商品を一旦バッグに入れた」という事実を、店内カメラと売場係員の証言で固めた。
そして、すぐに総務課長と店長に報告して、女性からのクレームに対する応答・対応を決めてもらった。
三日経っても女性からのクレームはなかった。
総務課長は『いったん盗ったのだから当然だよ!』。
しかし、店長は『よかったな…。』とつぶやいた。
私には“運”があったのだ。
つづく