SPnet私服保安入門
「完全否認」には演技力が必要である。
並の人間にできることではない。
しかし、「この逆に徹する」のも一つの方法である。
完全否認の逆? 「盗ったこと」を認めたら犯人の負けじゃないの?
それは“中途半端”だから効果がないのである。
「声かけ → とりました → 警察渡し」これを繰り返すと警察の方が音を上げてしまう。
今回は、警察から「あの老人は捕まえないでほしい」と頼まれた事例。
ここまでやれば「アンタッチャブル万引き」
ある店の保安業務を立ち上げたころのことである。
新しい仕事を受注すると、現地で私服保安を募集しその店で研修をして一人前にする。
研修生がものにならなければ、また一からやり直しである。
それまで指導私服保安はその店に通わなければならない。
その店は片道1時間半。
立ち上げに5カ月以上かかった店である。
・常習万引き老人
この店に男性常習万引きがいた。
75歳くらいのおとなしい老人である。
手口は簡単明瞭。
・食品売場に店内カゴを持って入る。
・パン売場で“食パン一斤”をカゴに入れる。
・次に、弁当・惣菜コーナーで“おむすび”と“パック入り惣菜”をカゴに入れる。
・ポケットから半透明のレジ袋を取り出す。
・人通りの少ない通路で、カゴの中の商品をそのレジ袋に詰めて袋の口を結ぶ。
・袋は半透明だから中の商品が透けて見える。
・入ってきたパン売場とは反対側の農産から食品売場を出て店外する。
もちろん私は検挙済みである。
私はこの老人を研修生の研修材料にしていた。
・店に来れば必ず盗る。
・必ず食パンから始める。盗る商品と手口はいつも同じ。
・盗った商品は透けて見える。
・足が遅いので逃がすことはない。
・昔の道徳教育を受けているので否認することもない。
研修生の“練習相手”に最適なのだ。
私は研修生Dを連れて食品レジ近くにいた。
“その老人”が店に入ってきた。
私はDをパンコーナーが見える位置に連れて行った。
老人が店内カゴを持ってパンコーナーに向かう。
そして、食パンをカゴの中に入れた。
私はDに「老人の盗る商品・手口・店外していく出口」を教えて尾行をさせた。
私『盗ったら連絡してヨ。私は顔を知られているのでここにいるから。』
暫くしてDから連絡が入った。
D『山河さん!その通りです!
あのあと“おむすび2個”、“パック入りのコロッケと酢豚”をカゴに入れました。
あっ!ポケットからレジ袋を出しました!』
私『そのレジ袋にカゴの中の商品を入れるからしっかり見ろヨ。』
D『あっ!曲がりました!』
実際の万引き現場を見たことのない者は“TV特番”より数倍興奮する。
電話が切れてしまった。
どの店でも食品売場では電波が弱い。
すぐにDに電話する。
私『入れたところを見たか?』
D『入れました。はっきりと見ました。いま、袋の口を結んでいます。』
私『棚取り現認した商品は見えるか?』
D『見えます!食パンとコロッケが透けて見えます!』
私『よしっ。そのまま尾行しろ。店外しそうになったら連絡してくれ。
連絡があったらすぐに行く。私が行くまで、絶対に声かけするなよ!』
D『わかりました!』
私は食品売場のパン側出口にいた。
老人の“いつもの出口”はこちらとは反対の農産側出口である。
しかし、今日はこちらから出るかも知れない。
Dが食品売場で老人を見失うかも知れない。
老人が私の方に来なければ、農産出口に走ればよい。
しかし、Dから連絡がない。
老人も私の方に来ない。
もう3分以上経っている。
「トイレにでも入られたのかなぁ…。」
私はDに連絡した。
私『いま犯人はどこにいるの?』
D『ガソリンスタンドの所です。』
この店ではガソリンを売っていない。
私『もう店外しているのか!』
D『しっかり尾行しています。』
私『店外しているのなら早く声かけしろ!』
D『はいっ!オ~イッ!オジイサ~ン!』
Dが老人を呼び止めている。
私は店の外に出て、ガソリンスタンドに向かった。
ガソリンスタンドの前にあるベンチに、老人とDが腰をかけて話をしている。
私はDに言った。
私『「店外する前に連絡しろ」と言っただろう?』
D『忘れていました…。』
実戦経験がないと興奮して手順を忘れてしまうのである。
「絶対に声かけするな」は忘れていなかったが…。
・「刑務所に入りたい」
私は老人に話しかけた。
私『オトウサン…。この前も言ったでしょう?「万引きをしたらいけない」って。』
老人は私に手を合わせて言った。
老『頼むから刑務所へ入れてくれ!警察官にもあんたから頼んでくれ!この通りや!』
私『オトウサン…。こんな少しでは刑務所に行けないンだよ。』
老『どのくらい盗ったら刑務所へ行けるンだい?』
私『オトウサンは70歳を越えているでしょう?
70歳を超えた人は懲役刑になっても、なかなか刑務所に入れてもらえないンだよ…。』
※検察官による自由刑の裁量的執行停止・刑訴法482条
老『そんな不公平な!』
私『なぜ、そんなに刑務所に行きたいの?』
老『家に居ても何も楽しいことはないンだ…。
連れ合いは先に逝(いっ)たし、孫は悪態をつくし、息子や嫁は怖いし…。』
私『刑務所は老人ホームではないンだから…。』
とにかく老人を保安室へ連れてきて、Dに事後処理をさせた。
警察官が老人を連れて行った。
その後、別の研修生にもこの老人を捕まえさせた。
老人は喜んで警察官に連れられて行った。
・警察からのお願い『あの万引きは捕まえないでくれ!』
別の研修生が老人を捕まえたあと2~3日経って、警察官が店に頼みに来た。
警『あのオジイサンだけは捕まえないでいただきたいのですが…。』
店『なぜです?』
警『成人の万引きは被害額が1万円未満なら、微罪処分で簡単に手続が終わるのです。』
店『聞いています。オジイサンはいつも千円程度ですから微罪処分でしょう?』
警『それがですねぇ…。1年以内に微罪処分があると二度目からは微罪処分にできないンです。
正式な事件として扱わなければならないンです。
今回も、前回も正式事件として扱いました。正式事件は書類作成が大変なンです…。
我々は万引き以外にもやらなければならないことがありましてねぇ…。』
店『それはよく承知しています。ご迷惑をおかけしていますね…。』
警『それだけならいいンですが…。』
店『他に何か面倒なことがあるのですか?』
警『それがですねぇ…。
警察からオジイサンの家に連絡して身柄引き受けを頼むと、
「そんなジジイは留置場にでも刑務所にでも放り込んでやってくれっ!」と言って、引き取りに来ないンです…。
仕方なくオジイサンをパトカーで家まで送って行くンです。
すると、オジイサンは『また頼みますよ!』と笑顔で手を振るンです…。』
店は警察官の頼みを受け入れた。
我々は店から『あの老人は捕まえてはいけない。』と指示された。
その後もオジイサンを見かけることがあった。
オジイサンの持っているレジ袋は口が結ばれ、食パンが透けて見えていた。
ここまでくれば“怖いものなし”である。
但し、これは窃盗罪に懲役刑しかなかったころの話である。
今は罰金刑があるので、オジイサンにも簡単に罰金刑を課せられる。
「食パン一斤・おむすび・惣菜で30万~40万円の罰金」では家族はたまったものではない。
おじいさんは、今どうしているだろうか?
5000円/日の日数分だけ、労役場で汗を流しているのだろうか?
つづく